7月22日(日)
「A.I.」 〜梅田東映パラス〜
スピルバーグは、はたして本当にこの作品を作りたくて作ったのだろうか…。
確かにSFXをはじめ細部まで丁寧に作りこまれた良質の作品である。しかし、「E.T.」や「未知との遭遇」で体験したワクワクする気分の高揚、作品自体から発せられる純粋な生命感など“Something Wonderful”が画面から感じられなかった。これらの原因は、なによりも作り手側の気持ちの高まりが思ったほど得られなかったからではないだろうか。
ストーリーで気になったのは、主人公のロボット、デイヴィッドが最初から最後まで「愛して、愛して、ママお願い愛して…」だったことである。インプットされたからとはいえデイヴィッドの頭の中にあるのは四六時中どうしたらママから愛されるかであって、いくら擬似親子でもここまで愛情を求められたら、流石のママもちょっと引いてしまうかもしれない。
ピノキオには「いい子になったら人間になれる」という努力目標があったのだが、「A.I.」のデイヴィッドの場合は最初から「いい子」に作られているので、その点面白みがない。最初はいたずら好きで、おじいさんのいうことをぜんぜん聞かなかったピノキオが鯨のお腹に入ってしまったりして冒険を続けるうちに、優しさと思いやりの心に目覚めながら成長する…。外面的に人間になるだけではなく、精神的にも成長し、初めて真の人間性に目覚めてゆくところが「ピノキオ」という物語の主題になっているのだが、「A.I.」の場合、そのあたりがどうも曖昧である。
デイヴィッドは、メカとして最初で最後の任務を忠実に遂行しようとしただけで、ロボットとしてのけな気さはあっても、人間になるがための苦悩や葛藤みたいなものは作品からあま感じられなかった。優れたコンピューターでありながらも人間を欺き、破壊的な行動に走る「2001年宇宙の旅」のHAL9000、人間と同じ寿命を得たくて殺人を繰り返し、最後には自らの死期を悟りながらも「命」の儚さと尊さを理解する「ブレードランナー」のレプリカント、ロイなどの方が、その生き様としては、きわめて「人間的」であったように思う。
キューブリックとスピルバーグの作品性にあまりにも違いがあったといえばそれまでだが、やはりキューブリックの企画をスピルバーグが脚本を書き、監督をしたことで、二人の巨匠の異質の才能が、うまく融合しあうことが出来なかったのではないかと推測される。スピルバーグが大先輩からの遺言のプレッシャーに負けたとも思わないが、スピルバーグ自身、このテーマを自分の世界にするにはちょっと時間不足だったのではないか。なにせキューブリックが20年以上暖めていた企画なのだ。作品に対する思いこみの温度差は確実にあったと思う。それほど急がなくても他の企画を進めながら、もう少しじっくり時間をかけてみてもよかったのでは…。たぶんそれができなかったのはキューブリック未亡人からの完成を急ぐようにという催促と、主役のオスメント君が早く撮らないと大人になってしまうというあせりがあったのかも…。主役は彼でなくてはいけないという大前提があったのかな…?別に彼でなくてもよかったかような気もするが…。
今や「ハリウッドの皇帝」であるスピルバーグが配給会社や事務所からの圧力を受けるはずがないし、好きなときに好きな作品を好きなだけ時間をかけて撮れるはずだ。現にキューブリックはそうしていた。しかし、そんなふうに自由自在にできる環境でも、それをしなかったのがスピルバーグがスピルバーグである所以なのか…。
パンフレットに書いてあったのだが、最近のスピルバーグは自分以外誰かのために作品を作っていて、「ジュラシック・パーク」は子供たちのため、「シンドラーのリスト」は母のため、「プライベート・ライアン」は父のために撮ったそうだが、「A.I.」はキューブリックのために撮りたいという意志が強かったのかもしれない。
演出に限れば、オスメント君の演技力にスポットを当てたかったのかもしれないが、他の役者の存在感があまりにも軽視された演出であったのは残念。冒険シーンでは相棒的存在だったジュード・ロウも最後はあまりにもあっけなく、みじめ…。関わり合いとしては一番長かったのに、印象に残らない…。これはジュード・ロウの責任ではない。彼自身は創意工夫ある演技を試みていた。芸達者のウィリアム・ハートに至っては、デイヴィッドとの対面シーンで一盛り上がりあるのかと思いきや、「ここで待っているように」と言い残したままトイレにでも行ったのか、とうとう戻ってこなかった…。
スピルバーグ曰く「もう一度、親知らずを抜かれるような気分だったよ。だって、スタンリーが僕の後ろに座って『ダメだ、そうじゃない!』と言う。幽霊にしごかれている感じだったよ。だから、無礼だとは思いつつ、この脚本はスタンリーの経験からでなく、僕自身の心から涌き出るアイディアで書くという断固とした態度を取った。それでもまだ、僕はまるで考古学者だった。文明のかけらを拾い集め、スタンリーの映画を再構築していったんだ。」
スピルバーグは20世紀の巨匠が残したかけらを拾い集めているうちに巨匠の亡霊にとりつかれてしまい、自分自身の独創性を見失ってしまったかのようだ。 スタンリー・キューブリックの企画という重いプレッシャーのなか、たった68日間という短い日数でこの大作を撮り終えなければならなかったスピルバーグに同情したい気分もある。また、逆に考えれば、短期間でここまでのクオリティに仕上げたのは感服しないといけないのかもしれない。
とにかく21世紀の巨匠には、次回作で本当に撮りたい作品をじっくりと時間をかけて撮ってもらいたいと願う。
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