Gallery Wanderlust




4月2日(火)


「カンディンスキー展」 東京国立近代美術館〜




美術の中でやはり絵画に一番興味が惹かれる。
もちろん、これまでに彫刻や伝統工芸、デザインなどにも魂を揺さぶられるような作品はたくさん出会った。
しかし、僕の中で絵画は神聖な領域である。
ゆえに画家は永遠に崇高な仕事であると思うし、それが巨匠と呼ばれる人たちとなると、その手による作品と対面し、鑑賞すること自体神聖なことなのである。
絵画の神聖さを感じた作品、例えば、レンブラントの「夜警」やベラスケスの「ラス・メニーナス」、フェルメールの「デルフト眺望」…

これまで僕の中でカンディンスキーという作家は、画家であってもどちらかというと「絵画学」を追求した学者的なイメージが強かった。しかし今回の展覧会を見て、まったく考えが変わった。カンディンスキーは「現代絵画」を極めた最も神聖なる画家である。
確かに実験的精神に基づいた作品は彼の膨大な作品群の中核をなす。
しかし、トレチャコフ美術館所蔵の大作2点「コンポジションY」と「コンポジションZ」をはじめとして今回の展覧会の作品には現代美術が陥りがちな概念や思想だけでこねくり回した頭でっかちな印象がこれっぽっちもない。非常にタフで潔い現代絵画として仕上がっている。
絵の向かいにあるベンチに座って眺めていると色彩とフォルム、マチエルが激しくせめぎあっている中、様々な具体的なイメージが浮かび上がってくる。見れば見るほど発見がある。アムステルダムやプラドでの至福の時間を思い出した。
色彩のセンスもただただ関心するばかり…それぞれの作品がテーマに即した抜群の配色、色彩設計が施されている。
今回の展覧会に出品されたのは、1910年代から1920年頃までの作品が中心。第一次世界大戦を挟んで画家が故郷のロシアとドイツを行き来しながら、最も脂の乗った活動時期であったのかもしれない。

ゆっくり鑑賞した後は、併設のカフェレストランで昼食とる。
天気も良かったので、テラスでカタログを見ながら、くつろげた。
かなり葉桜になっていたが、向かいの皇居のお堀でスケッチもした。
この美術館、改装してほんと良くなったなあ…。








4月11日(木)


「ブラックホーク・ダウン」 〜上野宝塚〜




リドリー・スコット監督最新作。

ベテランから若手スターまで魅力あるキャスティングを擁しているが、この作品でスコット監督は、登場人物への感情移入を最小限に抑えた演出に徹している。
作戦の開始から、予想外の戦闘ヘリ墜落、暴徒と化した民衆の容赦ない銃撃、市街戦、追いつめられていく米兵士たち、救出作戦、安全地区への撤退…
時間を追って作戦行動にあたる兵士たちを忠実に描写し、「戦闘シーン」に焦点があたるように配慮されている。ゆえに作品上映時間もの8割以上は戦闘シーン。映画的な盛り上がりもなければ、あっと驚くどんでん返しみたいなものもない。しかしスコット監督の意図は、あえてドラマ的要素を排除して「米兵戦死者、19名、ソマリア民兵1000名以上」という既成事実をどちらの方に付くこともなくリアルに再現することにより、「戦闘行為」そのものを描ききることにあった。そして、その意図は十分に成功を収めていると思う。
しかし、ひとつだけ気になったのは撃墜されたヘリのパイロットが人質になってからのシーン…これから民兵の指揮官と米軍の駆け引きがあるのかと当然のように感じるが、結局は何にもなし…。これでは観客からは編集段階で無理矢理カットしたように受けとられてしまう。「グラディエーター」でもそうだったが、ラストシーン近くでの編集の甘さみたいなものを感じた。

出演者で特に印象に残ったのは、車輌部隊の指揮をとるダニー・マクナイト中佐役のトム・サイズモア。「プライベート・ライアン」でもトム・ハンクス演じるミラー大尉の右腕である小隊の副官を演じて強い印象を残したが、今回も激しい市街戦の最中、冷静さを失う兵士たちの中にあって常に堂々としていて、淡々と闘う姿がクールでかっこよかった。まさに百戦錬磨の指揮官。「プライベート・ライアン」ではいったん死んだけれど、再びよみがえって戦場に戻ってきたかのようだった。

あるテレビ番組の中で映画監督の井筒和幸氏は、この作品に対して「マイナス5ポイントじゃ〜!」とえらく怒っていた。映画の中で「反戦」のメッセージや米兵士たちが武力介入し、現地人を殺害していくことへの憤り、アメリカ政府への批判が込められていなかったことなどが、井筒監督の「怒り」の理由だったようだ。僕はリドリー・スコットが好きなので、贔屓目にみているからかもしれないが、このイギリス人監督は作品にあまり「説教臭い」メッセージを込めたり、作品の社会的主題を正面から取り入れるるようなことを本来好まない(ように見える)どちらかといえば、生粋の映像作家であって、オリバー・ストーンのように「社会的テーマ」と「二元論」をはっきり備えてから作品制作に臨むタイプではないのだ。
この作品も「アメリカのソマリアへの武力介入」が作品の主題ではない。
例えば、スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」も「ベトナム」は主題ではなく、単なるモチーフであり、キューブリックが脚本を制作するにあたってのきっかけにすぎなかった。そこが「プラトーン」などとは根本的に違う。彼の作品テーマは生涯を通して「狂気」であったからだ。
リドリー・スコットも制作スタイルはどちらかといえばキューブリックに近い。繰り返すが、主題はあくまでも「ソマリア」ではなく「戦闘行為」なのである。
メッセージ・メーカーとしての社会的責任を問われるとそれまでだが、僕自身は今回もリドリー・スコットらしい仕事を十分に楽しめたし、観客が少なかっので館内が少し肌寒かった以外、井筒監督のように怒りで震えるようなこともなく、作品の余韻を残しつつ映画館をあとにすることができた。








4月13日(土)


「藤島武二展」 ブリジストン美術館



東京駅まで行ったついでに、久々にブリジストン美術館へ行った。
藤島武二といえば有名な「黒扇」で知られるように人物画の印象が強かったのだが、今回の展覧会は人物もさることながら、風景画が非常に素晴らしかった。
初期は黒田清輝が提唱した外光派の影響を作品に強く反映する藤島だが、やがて浪漫主義に傾倒した後、ヨーロッパ留学を契機に様々なスタイルを試みている。
晩年の岬に波が打ち寄せる様子などを描いた風景画のシリーズでは、出会った風景に感動しているのはよくわかるのだが、風景自体の迫力にのめり込み過ぎているような感じがして、静かな海や夕暮れの穏やかな入り江の風景などの方が造形的には惹かれた。

展覧会を見終わった後、隣のスタバで友人のT君と美術雑誌に載っている若手作家と藤島武二を比較して話す。
T君曰く、「藤島武二の時代から100年過ぎても彼を超える作家が一人すらいない。科学技術は進歩しても、美術は進歩するどころか逆に退化してしまっている…ほら、この2点比べて見てみい…」
彼は美術雑誌の表紙にあるリアリズムの人物画と藤島の作品「イタリア婦人像」のポストカードを同じテーブルの上に並べて僕に見せた。
そう言われてみると美術雑誌の表紙の作品は、リアルに描いていても伝わってくる物がない。藤島の肖像画はそれほど緻密に描き込まれているわけではないが、限りなく饒舌であり、描かれた女性の人生とかその時の画家の心境とかいろんなことがイメージできる。
「そうか、これって大事だよなあ…。一枚の絵から様々なイメージが湧き上がってくるだけでなく、時にはその絵をテーマに小説や詩や音楽までができてしまう…そんな作品が未来永劫本当に素晴らしい!」
そう考えると美術雑誌に載っている絵のほとんどが陳腐に見えてきた…。

というわけで、日本の美術に多大な危機感を感じたT君は、「もうこれ以上他人には任しておれん!」と自らこの春、某美術大学に入学した!
冗談でも大げさでもなく、僕は彼の試みが近い将来、停滞する日本美術界に一石を投じると確信しているし、彼の並々ならぬ決意と情熱は、藤島武二や黒田清輝など明治初期の日本の洋画家たちの志に通じると思う。

政治でも経済でも芸術でも、本当のトップクラスの人達はいくつになっても「俺がやらなきゃ、日本は世界はどうなる!」という強い使命感を受けていつも仕事に取り組んでいるような気がする。
T君の21世紀の挑戦に期待したい。