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| 10月30日(木) 膨大なピカソの作品群の中で僕が最も好きなのが、「青の時代」と、この「ピカソ・クラシック」こと「古典主義の時代」である。
「青の時代」はその名のとおり、青色が素晴らしい。この時代のピカソの青は指で弾くと「キーン」という音がしそうなくらい硬質な感じがするのと同時に、青という寒色系の色なのに温かみを感じる。絵の具の持つ無機的な素材感を最大限に発揮する一方、絵画という有機的な精神性の「ある種の極み」をぎりぎりまでに融合させた結果が僕だけでなく多くの人々を惹きつける「青の時代」なのだ。 「ピカソ・クラシック」にもそんな魅力的な青が登場する。当時の夫人ロシア貴族の娘オルガ・コクローヴァを描いた「想いに沈むオルガ」などはその好例であろう。「僕は上流階級と付き合うようになった」というピカソの言葉どおり、日常生活はかつてのボヘミアンな生活から華やかな上流階級での社交的な生活へと一変した。パリの高級アパートに居を構え、そこを訪ねるジャン・コクトーやエリック・サティ等の一流の芸術家や画商、貴族たち…。初めての子供にも恵まれ、ピカソは家庭を持った喜びと富と名声に包まれ幸福と栄光の絶頂にあったはずだ。しかし、作品の画面からはなぜか暗鬱としたメランコリックな雰囲気が漂う。「僕の居場所は本当はここではない…」そんなピカソの心の叫びが伝わってくるようだ。 この時代、ピカソは古典的写実的作品の創作を続けると同時に小さなキュビスムの作品も残している。家庭も仕事も充実した余裕からできる技ともとれるかもしれないが、僕にはどうしても虚飾に包まれた今の生活に満足できず、新たな方向を模索している姿に見てとれる。そんな意味からして「ピカソ・クラシック」だった1914年から1925年までの約10年間は、最もピカソらしくないといえばピカソらしくない時代だったのかもしれない。「ピカソ・クラシック」は創造と破壊を繰り返すマッチョなピカソではなかったのだ。しかし、人間として、芸術家としての欲望をすべて満たしたかのように思われたこの時期、ピカソは自らが感じた「妙な居心地の悪さ」さえ一つの時代として完成させてしまう…。 これもピカソの魅力だ。 |
| 10月31日(金) 六本木ヒルズ森タワーの最上階52階、53階にオープンした森美術館のオープニングを飾る展覧会。人間にとっての永遠のテーマともいえる「幸福」を、古代から現代にいたる東西のアートを通して探る…というのが本展のねらいということだ。
「幸福」のキーワードを「アルカディア」、「ニルヴァーナ」、「デザイア」、「ハーモニー」という4つのセクションに分類して古典から中世、近代、現代そして西洋美術、東洋美術、絵画、彫刻、映像などという垣根を越えて展示してある。まず、エントランスに巨大な森村泰昌の作品が据えられている。そして最初は 古い世界地図に始まり、セザンヌやゴーガン、モネがあると思えば、ルネ・クレールの短編映画、ギルバート&ジョージやヨゼフ・ボイスのオブジェ。阿弥陀如来像や観音菩薩像があるかと思えば、ジェフ・クーンズに村上隆などのネオポップアート。勝川春草や葛飾北斎の春画があるかと思えば、荒木経惟の写真に草間弥生。狩野正信や伊藤若冲の屏風絵があるかと思えば、オノ・ヨーコのジョン・レノンを撮った作品に奈良美智まで…。 実にバラエティに富んでいるというかごった煮の世界、なんでもありである。 「アートに表現された幸福のかたち」というコンセプトはある程度理解できたが、「そうかなあ…」とか「ちょっと無理があるかな」と感じた点もあった。逆に「アルカディア」、「ニルヴァーナ」、「デザイア」、までは即物的というかやや短絡的、「ハーモニー」に至ってはなぜ最後がこれなのかよくわからなかった。ともすれば消化不良を起こしそうな作品群の集め方だが、多少の違和感を逆に楽しみながらスムーズに鑑賞することができた。 そしてこの美術館、作品数の多さと展示空間の巨大さには圧倒された。でも疲れたら、大東京を一望できるカフェで一服できるし、同じ入場券で展望室も見学できる。 六本木ヒルズというロケーションから美術鑑賞以外の目的で来た観客が気軽に楽しめる環境になっているのも魅力だ。平日は夜の10時まで、週末は12時まで開いているというのは非常に利用しやすい。ミュージアムショップも充実。アミューズメント要素と付加価値の高い美術館として満点をつけたいが、あえて苦言を言えば、できればクロークかコインロッカーを設置してほしい。どこの美術館でもあるものだから…。 この大空間を生かす企画展は毎回大変だとは思うが、「アートの楽しみ」を新しい角度で試みることに挑戦した美術館の誕生だと感じた。今後の活動に期待したい。 |