Gallery Wanderlust




106日(金)

「現代中国の美術展」 日中友好会館美術館



田橋駅から徒歩5分くらい日中友好会館内にある美術館。以前勤めていた会社の取引先がこの建物の中にあったので一時は足しげく通ったものだが、美術館へは今回が初めてだ。中国第9回全国美術展受賞者の中からの選抜展らしい.

女性人民解放軍兵士を描いた作品(ほんの10年くらい前までなら男勝りの勇ましい姿を描いていただろうが、この作品の兵士はキュートで魅力的だ)、周恩来元首相の肖像を掲げた列車、現代中国の指導者を描いた作品などはお国柄だが、そのスタイルは現代的センスに溢れていて、決してイデオロギーに基づいて描かされているのではない。(現体制への批判を込めた作品もあったが、そういった作品ですらネガティブアプローチではなかった。なぜか明るいのだ)本当に各作家が対象に興味を抱いて表現していることが、どの作品からも伝わってくる。
また、中国の伝統様式に基づいた美人画にも惹かれた。この作品は人物の描き込み方とバックの風景の表現に少し違和感があったが、共同制作になっていたので人物と風景を手分けしたのかもしれない。それにしても迫真の描写力だ。しかも作者の生まれが
1972年と1976年になっていたので、ふたりともまだ若い。この若さでここまで高度なテクニックを身に付けているとは…。さすが米粒の先にもお経を書いてしまうだけのことはある。しかも10億人以上のなかから選抜されているのだ…。
中国の唐時代をはじめとする伝統絵画を例に挙げても、書き込み方が非常に細かい。
日本の絵画が江戸時代まで出来るだけ画面から、どんどん余分なものを取り払ってゆくことによって対象の本質に迫ろうとしたのに対して、中国絵画は、これでもかというほど細かく描き込んでゆく。水墨画を比べてみてもその差はよくわかる。

今回の展覧会は、そうした伝統的な写実力を基本にしながらも国の開放政策によって好きな画題を選び、自由に描くことができるようになった中国人作家たちの喜びの声が作品から聞こえてくるようだった。絵を描く情熱と力をあらためて教えられたような気がして大いに刺激になった
少し気になったのが、ギャラリーに収まりきれなかった作品が地下の会議室や宴会場に展示されていたことである。場所の問題であろうが、少し気の毒だった。







10月6日(金)

「ゴッホ素描展」 〜安田火災東郷青児美術館〜



今日二つ目の美術展。

ゴッホは世界中で最もたくさんのファンを持つ画家の一人であろう。
しかし、僕はこれまでゴッホが少し苦手までいかないが、見ていてちょっと圧倒されすぎるというか、激しすぎて退いてしまうようなところがあった。
アムステルダムへ行ったときも
フェルメールやレンブラントが強烈過ぎて、ゴッホ美術館の印象はエントランスの壁が少し崩れていたことぐらいであった。ゴッホ終焉の地オールベル・シュルワースでは、日本語のパンフレットまであって興覚めしたわけではないが、その生涯があまりにもドラマティックに演出過剰されすぎてはいないかという疑念がぬぐいきれなかったのだ。
そして、今回の素描展を見てゴッホは、本当にひたむきな勉強家であったことがよくわかった。その純粋なひたむきさには、陰鬱さや、狂気のかけらもない。絵画に対する崇高な精神性があるのみ。とにかく前向きで、ある種の「透明感」と「心地よさ」さえ感じられる。(彼の絵を見ていてこれまで心地よいと感じたことがなかったので…)水彩やグワッシュ、コンテや木炭、様々な画材を用いて実験を繰り返し試みている多くの作品からは、「狂気に捕りつかれた孤独な天才」というイメージはなく、真摯に己の表現を探求する一人の青年画家の姿が見えてくるようだった。
ゴッホはいろんな色の毛糸を巻いて毛糸球を作って色彩の相関関係を学習したと昔聞いたことがあるが、美術アカデミーを数ヶ月で退学してしまった彼が、いかに自分一人で学習し、研究を積み重ね、技術を磨いていったことがよくわかった。年表からみるだけでも生き方がホンマ下手な人みたいだったけど、彼が孤軍奮闘した画家としての10年間の作品から自分は、もっともっと真摯に学ばなければいけないと非常に遅まきながら感じさせてもらった。

今回の展覧会は「ゴッホ美術大学修了制作展」と副題を自分の中で付けた。








10月14日(土)

「マルコヴィッチの穴」 〜新宿東急〜



「マルコヴィッチの穴」という不思議なタイトルを聞いたときから興味がそそられた。俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中に通じる穴を見つけたときから、主人公の悲劇が始まるのだが、冒頭の人形劇から始まって、スッピンで歯並びまで変えたキャメロン・ディアスの役作りや、天井の低いオフィスでのシュールな会話のやり取りなど、マルコヴィッチ本人自身が穴の中に入って「全部マルコヴィッチ」になってしまうところあたりまではテンポ良く、心地よかった。この調子でドタバタの末、「穴」は閉ざされてしまい、儲けた金もパーとなってチャンチャン!といった感じ…と勝手に想像していたが、後半の意外とシリアスな展開に、せっかくの前半のテンポの良さが失われてしまったのが残念…。
ショーン・ペンやブラッド・ピッドがなにげなく登場していたところなどから、「マーズ・アタック」のような有名スターが次々とバカらしく殺されてゆくようなナンセンス・ユーモアを期待していただけにラストはちょっと出来すぎ…?
もうちょっと「なんじゃそりゃ〜!?アホかいな!」と思わず叫んでしまうような「だらしない結末」を選択した方が、この映画のアイデアの斬新さを、もっともっと純粋に抽出することができたのではないだろうか…。








1031日(火)

「中国国宝展」 東京国立博物館 平成館




4月に同じ平成館に「日本国宝展」を見に来たときは、平日にもかかわらず本当にすごい人だった。土日だと数時間待ちだったかもしれない。今回も休日は、かなりの人出だろうと予想して平日に出かけた。
僕がなぜこんなに人出を気にするかというのは、典型的な「A型」人間で、美術館などはある程度以上の混雑になると、とても落ち着いてじっくりとは見られない性質なのだ。混雑していると列が三重くらいになっていて、背の低い僕などは、なかなか鑑賞する位置までにたどり着けない。やっとの思いで作品の正面に達しても「A型」は小心者でもあるので、横隣りのおばちゃんが肘をあててどんどん押し迫ってきたら、気になってそそくさとビュウポイントから退場せざるを得ない。列の後ろからでも見える大きな彫刻や絵画でも、気に入った作品は離れて全体を見たり、近づて細かいところを観察したり、ぐるりと廻ってまた戻ってきたり…いろいろしたいのだが、混雑していると思うように動けず、時間ばかりが経ってしまう…。
また大きな絵画の場合、映画と同じで画面に人の頭が入ると、どうしても構図が遮られているようで集中できない。ましてや空間と作品を一体として鑑賞することが多い現代美術の場合は、余計に気になってしまう。たとえば、マーク・ロスコの大作のシリーズなどは、人の少ない空間で鑑賞すれば、かなりイメージが違ってくると思う。
また、今回の展覧会のように工芸品など宝物や書・巻物などは、ガラスケースに展示されていることが多い。ガラスに付着した鼻の油が妙に気になったり、茶碗などをじーっとながめていたら、ガラスケースの向こうからやはりじーっと見つめているおじさんと目があってしまい、いったい何を見ているかわからないようになってしまう…。

そんな神経質な「A型」人間とは逆に「B型」人間は、そういうわずらわしいことはまったく気にならないらしい。以前「B型」人間の知人といっしょに、かなり混雑した展覧会に出かけたとき、僕はやはり集中できず、日を改めてもう一度来ようと思っていたら、その知人は「いや〜すごく良かった…」と詳しく絵の感想や細かいディティールに関して話はじめた。僕が「絵の前のたくさんの観客の頭が気になって、全然見た気がしなかった…君も他の人の頭の間に埋もれてたじゃないか。見えなかったところ、けっこう多かったんじゃない?」と尋ねると、彼女曰く「私は想像力で乗り切る!」ときっぱり答えた。つまり「B型」人間の彼女の場合、どんなに周囲が大混雑していても、気に入った作品の前ではものすごい集中力と想像力を働かせて、画面の前に居並ぶ頭も視界から完全に消してしまい、作品を納得のゆくまで存分に鑑賞してしまうのだ。この「B型」人間の「想像力で乗り切る!」の前に、僕は完全にひれ伏してしまった。本当にすごい!

中国人にもこの「想像力」という言葉がぴったり当てはまる。比率的にもB型が多いのかもしれない。
黄河流域に初めて文明を築き、春秋戦国時代を経て統一帝国を打ち立て、様々な王朝の盛衰を経て現在に至るまで、中国の人たちは長い長い歴史をこの「想像力」で乗り切ってきたのだ。三星堆 の仮面や始皇帝の兵馬俑を見ながら、このような「とんでもないモノ」を作り上げてしまう力の源は「技術」や「信仰心」、「感性」といった言葉ではひ弱すぎる…。きっと「とんでもない想像力」を常に働かせていたのであろう。そして、自分たちはどんな苦難の時代にあっても偉大な文化を築き上げながら力強く生きてきた自信が、現代中国の原動力として受け継がれているのかもしれない。