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| 12月2日(土) 先週観た「アンジェラの灰」と同様、子供の豊かな表現力が存分に活かされた作品。 舞台は旧ソ連のタジキスタン。 盲目の少年コルシッドは民族楽器の工房で働いているが、研ぎ澄まされた感性(聴力)がかえって災いしてしまい、美しい音色を聞くと、我を忘れてその音の方に導かれてしまう。ゆえにいつも仕事に遅刻してしまう。 少年が工房に通うバスの乗客、友達の女の子、工房で働く少年たち…。これだけ子供が働いている国だから決して豊かでないだろうし、町には武装した兵士も見かける。ぎりぎりまでセリフを抑えた丁寧な情景描写に加えて、スラブ系、アジア系、中近東系…様々な人種の面影が交錯する子供たちの表情から現在のタジキスタンの置かれている状況を垣間見ることができる…。 ラストシーンのとドアをノックする音、鍋を叩く音、民族楽器が奏でるヴェートーベンの「運命」の旋律にあわせて踊りだす少女…映像と音楽の見事なコラボレーションだ。 すべてが豊かになった僕たちの社会では、純粋なもの、真に美しいものに対して素直に共鳴できることが難しくなっている。大人から子供までコルシッドのように心で聞き、感じ、見つめることなどできない。「心が盲目」になってしまったかのようだ。 観終わって日が経つうちに、淡い水彩絵具が心の中にゆっくりとしみこんでゆく… そんな印象を感じている。不思議な魅力をもった作品だ。 |
| 12月19日(火) 肖像画や写真を見ての推測であるが、青春期から青年期のハインリッヒ・フォーゲラーは芸術家というより繊細かつ神経質、感情にやや起伏のある文学青年といった印象を受ける。 初期の作品から受ける文学的な憂いは、「ちょっと微熱」状態である。画家が第一次大戦後、一転して熱心な社会主義運動に身を投じたのは風邪をこじらせて感染症にかかり、「高熱にうなされている」感じを受ける。そして晩年、熱が下がって再び「ちょっと微熱」状態に戻る。しかし青春時代のそれとは違って、晩年の作品からは病み上がりの虚脱状態のようなものを感じる。 あまり高熱になると意識朦朧だが、微熱のときはほろ酔い状態のようなもので、心地よさを感じることもあるが、僕はこの「ちょっと微熱」状態がフォーゲラーの魅力ではないかと思う。白樺派の文学運動については勉強不足であまり知らないが、明治末から大正にかけての日本社会、文学青年も、やがて訪れる「高熱」の前の「ちょっと微熱」状態であったのではないだろうか…。 今回の展覧会では、装丁やエッチングなども素晴らしかったが、特に油彩画がすごく良かった。 ドイツ時代はもとより、ロシアに渡ってからも、「熱」が下がって昔のスタイルに戻りつつあった晩年は「スキーをする子供の頭部」や「女優ロッテ・レービンガーの肖像」など連続してではないが、いい仕事を残している。 僕は本格的なフランス料理ほど食べた日の夜に気持ち悪くなることが多い。食べているときは美味いのだが、やはり本格的なところは油やバターの量が半端でないのだろう。西洋の油彩画、とくにバロック以降の作品を大量に鑑賞したとき、似たような消化不良を起こすときがある。しかし、フォーゲラーの油彩画は、同じフレンチでも素材や味付けは洗練されていて、量や油を調整して胃にもたれないように心がけているヌーベル・フレンチのようだ。洋食を食べるようになって100年、それまでは米や野菜中心だったように、ずっと日本画のつや消しの画面に親しんできた私たち日本人の体質にフォーゲラーの作品はあっているのかもしれない…。 僕は長いこと油を使った作品を描いていないが、来年はぜひ油彩画をやってみたいと思った…。 ハインリッヒ・フォーゲラーという作家の存在も作品もこの展覧会に来るまで知らなかったが、上質な作品の中で心豊かな時間を過ごすことができて幸運な師走の一日になった。 |