Gallery Wanderlust




119日(金)

「ベルギーの巨匠5人展」 伊勢丹美術館




ジェームス・アンソール、レオン・スピリアールト、コンスタント・ペルメーク、ルネ・マグリット、ポール・デルヴォー…
彼ら5人は、かつてフランドルと呼ばれたベルギーの出身であり、19世紀末〜20世紀にかけて、ほぼ同時代を生きた作家たちであるが、「印象派」や「フォービズム」、「キュビスム」といった美術運動のグループでしばし見られる作風や理論、思想的な共通性は彼らの中に見当たらない
しかし、展覧会を見終わってみると、一見作風も技法も異なる彼らのなかに、非常に濃密な共通性を感じた。少し時間をおいて、その共通性は「力強い意思」という言葉で統一されているような気がした。独自のスタイルを貫き通したため、アンソールにしても、デルヴォーにしても、当初、中央画壇からは酷評された。彼らは生涯自分自身の芸術に対して誠実であったと同時に、いい意味で「頑固」であったと思う。
フランスの印象派運動も同じように考えられるかもしれないが、印象派の画家が試みたことは、やはり当時のサロンを頂点とする美術画壇に対するもっと過激な「革命闘争」であったような気がする。強力な権力の象徴であったサロン(アカデミズム)は「王侯貴族」であり、本人たちはそんな気はなかっただろうが、モネやセザンヌ、彼らはアカデミズムを崩壊させて近代美術の基礎を築くという革命を成功に導いた「市民」であった。
しかし、ベルギーの巨匠たちの場合はそんな美術史の中の革命とは孤立無縁。もっともっとパーソナルで、それぞれの仕事や芸術家とての生き方が自己完結している。彼らの芸術革命の対象は、権力に対してでなく、あくまで自己の内面にあったと思う。
印象派が、その後続くゴッホやゴーギャン、マチス、ピカソなどにその精神性を進化させながら引き継いでいくところは、黒船来航から明治維新までを描いた大河ドラマでも観ているようだ。対してベルギーの巨匠たちは、一話完結のドラマを集めたオムニバス映画に例えられるかもしれない。
人物、風景、静物…なにを描いてもまったく異なったアプローチを試みている各々の作品からスタイルこそ違うが、「革命の精華」が伝わってきた。
今日は、芸術家にとって「力強い意思」が自己の芸術を完遂させるためにいかに重要であるかを納得させられたと同時に、ベルギーの巨匠たちの仕事振りから窺える「しなやかな頑固さ」が気分を清々しく高揚させてくれた








1月23日(火)

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」 〜新宿ピカデリー1〜



非常に重い内容のストーリーだが、緻密に計算されたと演出とカメラワーク、溢れんばかりのビョークの才能が鑑賞後も深い余韻を残すミュージカル映画の傑作だ。

いきなり真っ黒な画面で音楽のみが流れるオープニングから、ハンディカメラを使った8ミリ映画のような日常的な映像が40分近く続く。そして、ようやく始まるダンスシーンは最新デジタル技術による撮影と合成が施されている。このプライベートフィルム風の映像とオールロケのリアルなダンスシーンの対比は、ビョークが演じる主人公のセルマの悲劇的な人生と彼女の妄想のなかで繰り広げられるミュージカルの対比、現実と非現実という対極の位置付け以上に、観る者へ強烈な映像的インパクトを植え付ける。

ビョークのリアリティーで迫真の演技と楽曲と歌唱力の素晴らしさが、この映画の完成度をぐいぐいとひっぱていったことは確かだが、脇を固める俳優陣も素晴らしい。カトリーヌ・ドヌーブは「シェルブールの雨傘」以来輝いて見えたし、「グリーンマイル」でトム・ハンクスの心優しい同僚役だったデビッド・モースは、最初こそ同じく心優しき隣人・警察官だったが、その後豹変してゆく表情はこの映画の中で一番怖かった。またそれとは逆に冷酷な女看守と思いきや、セルマの心の痛みと恐怖を理解して人間的な優しさといたわりの心で接したショブハン・ファロンも素晴らしかった…。
映画全体を支配している60年代アメリカの片田舎のけだるい雰囲気は、ハリウッド製の映画が描く「アメリカ自画像」とはどこか趣を異にするなと観ながら考えていたら、やはり監督のラース・フォン・トリアーはデンマーク人で、ロケもアメリカではなくスウェーデンで行われたようだ。デンマーク人のトリアーに、アイスランド人のビョーク、フランス人のドヌーブなど異邦人である彼らが描いた「アメリカの肖像画」は、どこかぎこちなく、日常と非日常の境を酩酊する感覚が画面から伝わってきて恐怖を増長させている…。また、トリアーがカフカの「アメリカ」が好きでこの映画のアイデアの背景にもあったとパンフで読んだが、確かにこの作品の中でのトリアーの視点は、カフカが小説の中で描いたアメリカに通じるものがあると思う。

暗黒のオープニングから、唐突に始まるリハーサルシーンに始まってセルマの苦難の連続はひとつのミュージカルの「役」を演じきるまでの女優の「生みの苦しみ」にもとれる。まさに彼女は立派にミュージカルのヒロインを演じ切るのだが、パンフにも書いてあったようにオープニングとラストがぴったり合致することによって初めてこの作品のコンセプトが理解できる。その理解ができた上で受ける印象は、恐怖であり、感激であり、悲壮感であったりするのだが、僕はこの映画のオープニングとラストの相関関係から人間の「輪廻転生」に似たものを感じた。オープニングの闇とラストシーンがメビウスの輪のようにつながって、いまだに頭の中でぐるぐる廻っているのだ。
僕の心の中でこの作品は、しばらくの間
「輪廻転生」し続けそうだ。








1月26日(金)

「レンブラントへの贈り物」 〜シャンテシネ 1〜



多くの芸術家の人生は、結構トラブル続きだ。
決闘試合で相手を殺害して逃亡の果てに死んだカラバッジョや、パトロンである教皇ユリウス2世との確執が終生続いたミケランジェロ、またピカソはその過激な性欲ゆえに結婚・離婚を繰り返し、その度に精神的ストレスが絶えなかったように窺える。平穏な生涯を送ったかのように見えるフェルメールにしても詳しいことは謎のままだが、マスオさん状態であった彼も義母との関係に気を使ったり、子沢山の家計のやり繰りにきっと頭を悩ませていたに違いない。
そしてこの映画の主人公レンブラントも最愛の妻の死後は、寂しさのあまりつい手を出してしまったメイドに結婚不履行で訴えられたり、辛辣な発言やプライドの高さがゆえ嫌われて注文を減らし、借金と貧困のなかで生涯を終える。
考えてみると、レンブラントだけでなく自らの芸術に悩み苦しみ死んだ芸術家より、家族関係や恋愛、借金など苦しみを抱えて死んでいった芸術家の方が絶対に多かったのではないだろうか。いくら偉大な芸術家にしても悩みは凡人と大して変わりはなかったと思う。
映画の中でレンブラントを演じたオーストリアの俳優クラウス・マリア・ブランダウアーはその容貌が本人のにそっくりな上、気性の激しい性格をうまく取り込んで役作りをしている。また、アトリエでの制作シーンも有名な「トゥルプ博士の解剖学講義」や「夜警」など実際の作品と映画の中でのモデル(俳優)をうまく組み合わせてリアルに再現していた。画家のアトリエ風景や製作過程などの細かいディティールへのこだわりが観ていて心地よかったのは、監督自身が画家でもあったせいかもしれない。

レンブラントやフェルメール
が生きた17世紀は、まさしくオランダの黄金時代。彼らの死後、オランダは世界史の表舞台から静かに退き、豊かで静かな余生を現在でも送っているようだ。人間だったら働き盛り、経済的にも文化的にも国力が最も充実していた時期に、この二人の偉大な画家を生み出したのは正に象徴的だ。オランダには一度しか訪れたことがないが、他のヨーロッパ諸国に比べると「枯れた余裕」みたいなものを感じた。この余裕はどこから来るのか…。「夜警」、「デルフト眺望」など、短い時代にこれだけの「世界的至宝」を生み出した自信が国をおおらかに包み込んでいるかのようだ。
僕たちの国は、決してオランダには負けない素晴らしい歴史と文化を築いてきたのにも関わらず、
「枯れた余裕」に至るには程遠い…。
果たして21世紀の日本は、偉大な業績を成し遂げた賢人の豊かな老後のように、穏やかな歴史をこれから歩むことができるだろうか…。








1月30日(火)

「鑑真和上展」 〜東京都美術館〜



鑑真和上が12年間に渡り、幾度の苦難、6度の航海を乗り越えて来日したのもすごいが、彼を口説き落として呼び寄せた当時の日本人もすごいと思う。この時代、乱れた国を仏教の力でまとめようと必死だったのではないか。例えは全く不適切だが、98年オフに瀕死の阪神タイガースのフロントが、三顧の礼を持って野村克也氏に監督就任の要請をした時のように差し迫った状況であったに違いない。まさしく国家の存亡をかけて鑑真和上その人に賭けたのであろう。「ロマン」や「情熱」といった言葉が死語になりつつある21世紀の日本では実感しにくいが、8世紀の日本では
一人の高僧を迎え入れ、その教えによって国家のコンセプトを構築する「仏教による国家の平定」は、「IT革命」以上に当時の切実な国家戦略であったに違いない。
信仰心のない僕などにも時空を越えてこんなにリアルに迫ってくる「ロマン」は、大戦とバブルを経て、明確な「国のアイデンティティ」を失ったままさ迷い続けている日本人に対しての何か重要なメッセージに思えてならない。
「儲かる」「楽しい」「便利」…今の僕たちの社会が美徳と考えている言葉などは無縁の心境で鑑真和上は喜んで海を渡ったのではないだろうか…。